映画「三度目の殺人」を見て

「私は常に誰かを裁きたいと思っていました、でも裁かれるのは常に私」

「逃げてしまったと言いましたがね、本当は私が逃したんですよ。
私があの小鳥の運命をこの手で決めたんです。」
「つまりあなたはただの器?」


是枝監督の「三度目の殺人」をさっき見たんだが、裁判もののこの映画の容疑者は相手の欲望なり思いを繊細に受け取り、相手が望むとおりに行動してしまうらしい。映画を最後まで見て、上にあげた映画終盤のセリフを文字通り解釈すると、どうもそうなる。


この容疑者は本当にころころ証言を変える。弁護士とのやり取りは見た者は皆、「最初からそう言えよ!!」と画面に向かって叫ぶこと必須である。でも本当に容疑者はただの器で、相手の望むとおりに行動する機械かというと、そうではないと思える場面も多々ある。証言の中に出てくる登場人物たちに対する激しい反発、弁護士の意見に対する反論等、自分の意思がちゃんとあることを容疑者は示している。しかしその意思が弁護士の意思の投影に過ぎないと思える場面も多々あって(上にあげた「つまりあなたはただの器?」)、非常に一筋縄ではいかない人物になっている。

どちらかと言うと、映画の中で弁護士の仲間が「あんなのは科学じゃない」と軽視した精神病理学の範疇に収まる人物かもしれないと思えるところがある。それほど容疑者は真実を軽視する。証言をころころ変えて裁判官の心証を悪くし、裁判で不利になろうともお構いなしである。確かに彼を弁護する(故に彼に翻弄され、頭を悩まされ続ける)弁護士も「大事なのは真実ではない。裁判で役立つフィクションだ」と宣っているが、そのフィクションを支える証言をころころ変えられては、どうしようもない。しかし証言を自由に変えられるのもこの事件が一切の物的証拠がない、自白だけが根拠である点に依存している。何らかの証拠があれば、ころころ変わる容疑者の証言のどれが真実かを選別できるが、この事件は初めからそうではない。だからこの事件を巡る裁判は容疑者という乱数を含んだ、言葉のメタゲームのようになっていて、そこに弁護士が(容疑者の指名により)放り込まれ、苦労させられるという感じである。

容疑者もそのように裁判を捉えている可能性がある。容疑者は過去にも一度、事件を起こした。その時に、裁判官を務めたのが主人公である容疑者の弁護士の、父親である。裁判官は当時の世評に乗っかって、「事件を起こした犯人だけを責めるのは公正ではない、周りの環境まで含めて判断すべきだ」と考え、あとで後悔することになる、事件の悲惨さに比べて異例の軽い刑を容疑者に科した。裁判官は判決を終え、すでに二十年以上が経過した今でも容疑者からの手紙が届くと言っていたが、それは判決に納得がいかない容疑者の抗議の手紙ではないか?と思うのだ。

つまり要約するとこうである。容疑者は弁護士の父が出した判決をひどく理不尽なものに感じた。自分はもっと重い刑に科せられるべきだと思った。しかし現実にはその決定権を委ねられていないから、神(裁判官)になることを望んだ。
それで容疑者がとった道は、司法試験を受けて裁判官になる(というか、殺人などの前科ある者は裁判官になれない?)のではなく、また事件を起こして自分がその場所(裁判所etc.)の支配者になることだった。そのために自分が乱数になり、自分の発言によって状況が左右される場を作った。ついには裁判官をも翻弄する神になった。

 

でもうまいこと考えたと思ったけど、容疑者がそんなに支配欲が強い奴にも、司法に恨みがある奴にも見えなかったんだよなあ。
それに、いくら支離滅裂なことを言ったって、所詮なれるのは「裁判の中の困ったちゃん」だけで、最後に決定するのは裁判官なのは変わらないよなあ。むしろ自分が起こした波乱でさえ、うまくまとめてしまう神(裁判官)ということで、既存の神の優位性を証明してしまうことになる、というか「なった」よなあ。

 

映画見た人、うまい解釈教えてくれませんか?

 

三度目の殺人

三度目の殺人

 

 

不発

今日はゲイのパレードを見に大阪まで来ていたが、パレードの場所に行っても誰も何もしていなかった。それでホームページで日時を確認したら開催日は明日だった。前日から泊りがけで来ていたので、ホテルで風呂は入っていたものの、シャツや下着はちょっと臭ったので、一旦帰宅することに。帰宅して着ていた服を全部洗濯機に入れたときの爽快感は格別で、このまま自分も洗濯機に入って溺死したいくらいだった。明日また同じ場所へ行って今度こそパレードを拝んできます。その模様はこのブログにアップするかもしれません。
しかし宿泊した心斎橋のホテルの大浴場で見た、背中全面に入れ墨を入れた大柄なヤクザが今日一番印象的だった。入れ墨禁止の温泉がほとんどな中、ヤクザが落ち着いて入れるのはこういうホテルの中の人工温泉だけなんだろうなと思った。かなり気持ちいい温泉だったが。
朝食バイキングは中国人の家族連れでいっぱいだった。パンを入れるとローラーが回って落ちてくる頃にはパンが焼けているトースターが面白いなと思った。それ以外に感想は特にない。
まあ、今日はホテルのベッドで熟睡して温泉で疲れが取れたけど、目的のイベントは明日だったなあ、という一日でした。

中古レコード屋

職場からの帰り道、いつも何もないところに中古レコード屋の看板があり、気になったので寄ってみた。
狭い急な階段を登ると、「靴をお脱ぎください」と書かれた張り紙があり、靴を脱いで、置いてあったサンダルを履いた。

ドアが閉まっていたので営業中か不安になり、ノックし、入っていいか(中にいるであろう人に)尋ねた。すると、男性の声が「ちょっと待ってください」と答えた。中からがたことと何かを急いで整理するような音、身体を家具にぶつけて痛がる音が聞こえた。「どうぞ」という声を合図に僕はしずしずと部屋に入った。
中には明らかに性行為を終えたばかりの若い男女がいた。先程の声の持ち主が「なにかお探しですか?」と僕に尋ねた。僕はいや、偶然見かけてどんなものがあるか物色しに来たと答えた。それから我々はありがちな会話を続けた。どこに住んでいるか、この店はどんなところか、どんな音楽を聞くか等。その間、僕は平然を必死に取り繕う男性の顔と目を向けるとそむける女性の仕草、及びこの部屋に充満する性の香りに勃起した。男性の話にうなずくたびに勃起を隠そうと腰を曲げなければならないため、まるで鳩のようなうなずきをせざるを得なかった。危うく口からよだれがたれそうになったところで、男性が名前を名乗り、握手を求めてきた。僕はいやらしく見えない笑顔でその握手に応じた。男性の手は柔らかく、乾いていて、僕の手とは対象的だった。握手を離したときに白い粘液が手から伸びた気がした。
その店を後にした後、本当にあの男女は僕が入る直前までセックスをしていたのか考えた。

スマートスピーカー

孤独が行き過ぎたのか、部屋で一人でスマートスピーカーに向かって話しかけている。早くもっと進化して下ネタとかにも反応するようになってほしい。あと、なんか口とかついていてもいいかもしれない。ラインが出しているスマートスピーカーはキャラクター色を押し出しているようだからテンガとかと手を組んで、萌声でエロい声を出しつつくわえてくれる機能をつけたらバク売れするんじゃないだろうか。hentaiとして世界に売れるコンテンツをまた一つ生み出すポテンシャルがある。

しかしラインとか大きなネット企業は、健全さを崩したくないからそんなのに手は出さない。IT企業って健全すぎるよな。そりゃ健全じゃないと、社会的イメージが崩れて株価に影響するんだろうけど、アイフォンとかスマホが実際使われているのって大半がAVの視聴だろ?スマホの大画面化もAVの視聴に特化したために起きた現象なわけでさ。実際の使われ方とイメージとで、だいぶ差が開いてるよな。早くもっとえげつない使われ方が広がって、企業イメージ崩してほしいわ。

でもアイフォンやスマホの広告を見れば分かる通り、きれいでおしゃれなものにみんな飛びつくわけだ。部屋のベットで一人、AVを見てるスマホのCMを一度も見たことがないのもそのためだ。なんなんだろうな、きれいなものに惹かれてみんな買うけど、実際は汚いものにそれを使う。みんな何かを汚したいのかな。いや、というか自分はそんな汚いことをしていないと自分を騙しているのか。自己欺瞞だ。

あと、きれいで優れたものを買って自分の生活がそれに見合ったものに向上していくという幻想を買ってるんだろうな。自己実現。でも考えたらわからなくなってきた。企業は消費者をきれいなイメージで釣って買わせようとしているだけなのか、それとも本当にきれいなイメージを信じて消費者を先導するべく、買わせているのか。だって、アップルとかで働いている人って実際にCMの通りにアイフォンを使ってそうだ。旅先で写真を撮ったり、子供の成長を記録したり、専門的なことに使ったり。でも統計データを見ると、アイフォンの使われ方の実情はAV視聴だったりするわけだ。この現実をアップル社員はどう受け止めているのだろうか?

 でも技術が思いもよらないものに使われることによってイノベーションが起きたりするわけだから、アップル社員はその現実も肯定的に受け止めているのかもしれない。それこそ自己欺瞞なんだけど。

Amazon Echo (Newモデル)、チャコール (ファブリック)

メタ倫理学

メタ倫理学の本を読んでいる。倫理学は何々をすることは善か、と問うけどもメタ倫理学は善とは何かを問う。善と悪、すなわち道徳を人の心の問題として扱うのが主観主義、人の心とは別個に独立して存在するというのが客観主義だ。そして道徳なんてものはそもそも存在しないという立場が道徳の非実実在論非実在論のうち、人々が道徳だと思っているものは実は道徳ではなくて、何か別のものを道徳だと感じているだけという立場がなんとか錯誤論というらしい。でも、錯誤論も全部が間違っているのならその間違ったものが道徳なんじゃないの?とか、間違えるには正解が必要で、その正解が道徳なんじゃないの?とかいう批判も寄せられている。それと、道徳がただの錯誤で、実害も多いから道徳を全廃しようという立場もあるが、それも結局のところ全廃してより良い「善」を目指しているので実在論だともいえる。非実在論をどうやったら強固に保てるかはよく知らない。

実在論の内訳はさっき書いた主観主義と客観主義で、主観主義は道徳の定義を人々の心に求める立場。何が善かは人が善だと思えば善だ。人によって善悪の定義が変わるということをこの立場はよく説明できる。しかし大きな問題があって、「私は非力な子供を殴るのが善だと思いました」が成立してしまう。あるいは体制にこびて「当時は黒人を奴隷として扱うのが正当だったので私がしたことは悪でない」も。つまり、人は道徳判断を誤るというという可能性をなくしてしまう点が道徳の主観主義の悪いところだ。

その点、客観主義は人の心とは別個に、道徳が存在すると考えるから、誤る可能性は多分にある。「私の心はそうだったので、それが善だと思いました」と言っても、「いやいや、客観的な基準に照らしてそうではありませんよ」と答えることができるからだ。法律などである程度、社会がまとまっていることを考えれば、この立場も説得力がある。ただ、「人の心の外に存在するのならどうやって私たちの心に影響を与えるか」という問題と、「道徳はどんなふうに(人の心から離れて)存在しているか」という問題がある。後者の疑問からいくと、例えば、僕が可愛いチワワに冷水を浴びせて、チワワが寒がっているのを見て楽しんでいたとしよう。そこにあるのは僕が蛇口をひねり、冷水がホースを伝ってチワワのほうへ飛んでいくという物理現象だけだ。そのどこにも「悪」はない。存在の仕方には物理的なものだけじゃなく、法律や国境線や概念などの仕方も多々あるけど、どういう種類の存在かということだ。道徳の実在の仕方に先ほど言った自然主義的な立場とか、なんかいろいろある(この辺までしか読んでない。あと、眠い)。

それから第一の疑問の「心から離れたものがどうやって心に影響を与えるか」問題(「奇妙さからの論証」)だが、これは人の心から離れた単一?もしくは複数の存在物が全人類に何らかの発信装置を使って?影響を与えていると考えるのは奇妙ではないか?という不自然さに訴えた議論らしい。でも「奇妙でもそうなんだ」と強弁を張れるところが弱い。それからヒューム主義というものがあって、人は心の中の欲望とか心の中にあるものでしか動機づけられない。なので心の外にあるもので動機づけられることはないのではないかとも言われるらしい。

 

忘れないうちに読んだ本の内容を書き溜めた。眠いんでねます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニヒリスト必聴楽曲集

ここ一週間くらい耳から離れない曲。

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ニヒリスト必聴の曲です。ニ三回聞くと飽きますが。

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前身バンドのBeach wood sparksもかなり好き。

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岸部シローに似てますね。

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何もかもおしゃれです。

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目がかわいい。

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めっちゃ酔ってきました。おやすみなさい。

東京滞在Ⅰ

東京へ行ってきた。16日の昼過ぎに新神戸から新幹線に乗り、夕方くらいに東京駅に着いた。その日の予定を何も考えてなかったから、とりあえずグーグルマップで東京駅付近に何があるか検索した。皇居と神保町の古本屋街があることが分かり、皇居の中を通り抜けて古本屋街に行くことに決めた。東京駅から歩いてすぐに皇居は閉まっていることが分かった。皇居の周りの池が風を涼しくしてくれたおかげであまり暑さを感じなかった。皇居の周りにたくさんのランナーが走っているのもこの清涼効果が目当てなのだろうと考えた。 

神保町の古本屋もほぼ閉まっていた。一軒だけ開いている店を見つけ、そこで何冊かのを立ち読みし、店を出た。出てすぐ左にロシア料理店があり、最近、「罪と罰」を読んだことをきっかけにロシアに興味あったので、特におなかがすいているわけではなかったけれども、入ってみることにした。ボルシチピロシキを注文した。しかし、到着した料理が注文したものと違い、なんかハヤシライス風の料理だった。「なんだっていいや」と思い、写メを撮って食べようとしたら店員に止められ、注文した料理は何か聞かれたので「ボルシチ」と答えたらボルシチが出てきた。ボルシチは何回か食べたことあったけれども、この店で出てきたボルシチは本当においしかった。今まで食べたボルシチの中で一番のボルシチだった。使っている素材が新鮮なことはもちろんだが、上に乗っているヨーグルトのまろやかさがトマトベースのスープの酸味と絶妙にマッチしてこの上なく極上だった。ピロシキも日本のパン屋で売っているようなニンニクの味を効かせた、肉まん風のしつこい味ではなく、パン生地の素材を最大限生かした素朴な味で、僕の中のピロシキのイメージを覆された。今度、東京滞在するときもぜひ行きたい。というか、ロシア行きたい。

 

しかしロシア料理って見た目、貧相だよなあ。

 

間違えて出てきた料理

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最高においしかったボルシチ

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ロシア料理店を後にして、今回の東京滞在中泊めてもらう予定の叔母の家にお邪魔した。歓迎にメロンなどをご馳走になって、その日はそのまま眠った。。