月刊ニヒリスト

ニヒリストが日々あったことを綴るブログです。

惨めさの演出

頭が狂ってきたのかもしれないが、明日自殺相談の電話をかけてみることにする。
自殺したいわけではないが、気落ちはしていて、ネトゲをひらすらやって頭を麻痺させるくらいしか救済方法がないくらいまでにはなっている。
なんていうか、自分をいかにも惨めな状況に置いて、虚構化して自分を笑おうという作戦なのだ。いや、そんなことをしなくても今のままで十分惨めだという話ではあるのだが、なんか極端じゃないと「ちゃんとものが見られない」のだ。もちろん真剣に悩み相談している人をバカにするつもりはない。いや、でも無自覚的に差別意識はあるのだと思う。だからもう差別していることを自白しておく。自分の中で「いのちの電話」にかけることは、それが真剣なものかはともかく、極端に惨めな状態に自分を置くことにほかならない(まぁ、今の僕の状況においては、という補足付きではあるが)。
でもこの戯画化して自分を笑うというのは誰しもやっていることじゃないのか。例えば(いま思いついたのは)、失恋したその日にナイトプールに一人で行って誰にも相手にされず帰宅するとか。なんかそういう極端に惨めな状態に身を置いたら救済されない?自分の惨めさに笑いたくなるというか。それを狙っていのちの電話にかけようとしているのだが、相手は本気で自殺を食い止めたいと思って電話を受けているのだろうから若干気後れはある。でも僕がこのまま電話せず、ネトゲがあるとはいえ、ずるずる過ごしたら万が一自殺に至るという可能性はあるのだからかけてもいいだろうと身勝手ながら思う。
それに僕は客観的な立場で見てもずいぶん可愛そうだと思っている。村上春樹は自分を憐れむやつはクソだとどこかで書いていたが、根拠なくそういうことを書かないでほしい。自分を憐れむことでやっと立っていられる状況だってあるのだ。僕だって他人を憐れむ余裕があるならそうしたい。

まあ、それはそうと、子供の頃から道徳の授業等でいのちの電話を紹介される度に掛けたらどんな話をしてくれるのか興味があった。いま、転職しようと思っていた会社が偽造請負だったから転職するのを辞めて、前の会社も辞めてしまったという僕の状況は客観的に見ても可愛そうなので(いつも睡眠薬を処方してくれる心療内科の先生も同情してくれた)、いまがその好奇心を満たす絶好の機会なのだ。
あと、最近、「反出生主義」に興味があって、デイヴィッド・ベネターの本を読んでいるのだけど、そのへん反出生主義の反論にいのちの電話の相談手がどう答えるのかに興味がある。まだちょっとしか読んでないけど、ベネターはこういう議論の立て方をする。幸福というものは、いまある状態のものがより良くなることを指す。逆に不幸は、いまある状態のものが何かを失い、良くなくなる事態を指す。生きていて、意識を持っている限り、かならず喪失は訪れる(つまり不幸になる)。しかし存在していない人間には幸福も不幸もない。ここから読んでないので飛躍するのだが、結論としては存在することは実害だ、という主張になるらしい。出生前診断で重度の障害を持つと分かっているのに、子供を作る親などに言及している。結構難しくて、なかなか読み進められないのだけど、まあ、暇なので読む。
というわけで、明日はいのちの電話にかけてみます。