月刊ニヒリスト

ニヒリストが日々あったことを綴るブログです。

検査を受けてきた。

他人のプライバシーがあるのであまり詳しく書けないが、コロナの濃厚接触者となったので、今日PCR検査を受けてきた。検査方法は唾液をプラスティックの容器に一定容量出すだけ。ものの五分で終わりそうな検査だが、事前に口を水で濯いで、十分間待ち、その後にいったん口の中の唾液を全部出して、その後に自然に?湧いてくる唾液を採取するという内容だったので、二、三十分かかったんじゃないかと思う。

検査した場所は一般病棟とは別の建物で、入り口のインターフォンを押すと、看護婦が迎えに来てくれ、建物の中に案内される。その時に、パルスオキシメーターという血中酸素濃度を測る、クリップのような装置を指先にはめた、顔色の悪い老人が担架に乗せられて運ばれていたのを見て、「コロナって怖いなあ」と他人事のように思った。

PCR検査以外はCTと体温と酸素濃度と血圧を測った。血液検査とレントゲンは昨日(了承を得て)行ったクリニックで測ったので、たぶん省略された。どれも異常なしだった。

ここ二三週間の行動を詳しく聞かれた。どこに行って何人と接触したか、あまりに体調の悪い方がいないか、通勤手段は何かetc..。

診察室は患者と看護師の間に、ビニールシートが貼られ、血圧測定もビニールの下に開けられた穴に腕を通して行われた。ビニールシート越しでの看護師とのやり取りは、刑務所の面会を思わせた。時々、細かいことを覚えていなくて、看護師の質問に答えられないことがあったが、素直に「忘れました」と言ったら通してくれた。


看護師はネットでよく聞く、ビニールの雨合羽を着て作業していた。海外の宇宙服みたいな密閉した服とは違い、目元はノーガードで、器具や書類を取るときに、たまにビニール手袋を外すことがあったり、「もうちょっと気をつけたほうがいいんじゃないか」と濃厚接触者としては思った。

病院からの帰り道、病院のすぐ目の前にある、喫茶店は休業していた。周りは閑静な住宅街で近くに大学や自然公園があり、マンションの建築工事も行われていた。
「病院の近くに住めば、子供も安心して育てられると思ったんだろうなあ。それが逆にリスクになるなんて皮肉よなあ」と思って、暑かったのですぐに帰った。

 

↓設定が面白そうだったので見たが、結末がファンタジー過ぎて萎えた。一人倒せば、それですんなり事が収まるなんて、お花畑すぎ。ただ、東大出の非モテの無職という主人公の演技がけっこうリアルだったのと、あまりにも初々しい素敵な恋愛(←語彙がなくてすみません)と死体清掃というギャップが「効いてて」面白かった。

 

『メランコリック』公式ホームページ

https://www.uplink.co.jp/melancholic/

 

メランコリック

メランコリック

  • 発売日: 2020/04/02
  • メディア: Prime Video
 

 

https://www.youtube.com/watch?v=JES4SlS0KuQ

 

 

合コン 事後報告

ウォーキング街コンで偶然出会った、社交的な女性に、合コンを誘われて今日行ってきた。

男4:女4で、女性三人は同じ職場の同僚で、もう一人は三人のうちの一人の大学時代の友人。男は僕も含めて三人が高校時代の友人で、もう一人はニートの友達がバーで知り合った、やり手の営業マン。

僕がなぜか男性陣の幹事みたいなことをやらされて、いつも暇な高校時代の友人三人はすぐに集められたのだけど、もう一人がなかなか見つからず、ニートの友達に頼った。やはり交友関係が狭いから幹事は向いていない。

お店は女性陣の幹事が決めた、イタリアンバーだった。

普段は大皿で出して、みんなで小分けするスタイルの店らしいが、コロナの影響で最初から小皿に一人分の料理が運ばれてきた(合コンが始まってしばらくして気づいたが、過去に一度その店に来たことがあった。合コンで)。料理はけっこうおいしかった。パスタは小ぶりだが、麺が引き締まっていて、ソースも普通においしかった。

 席に着くと、さっそく自己紹介が始まった。名前、年齢、おおまかな住所、職業、趣味等を順番に言い合った。

ニートの友達は、いつものように苦境に立たされていたが、やり手の営業マンのフォローというか、暴露により、正直に話さざるを得なくなり、まあ、なんというか、いつもの歯切れの悪い、観念的な職業紹介ではなく、とりあえず「意味の通った」ものにはなっていた。時々、僕に助けを求めてくるのだが、あれは本当に困る。こちらも不動産の知識などないのだから、本でも読んでストーリーを練ってくれと前に言ったのだが。 

僕の番では、本来の趣味の、ゲーム、映画鑑賞、サイト制作(転職のためなので半分、仕事)だけでは、僕の豊満な体型をそのまま表していると思ったので、登山も入れておいた。本当は、年に一回程度しか登っていない(去年は登っていない)のだが。

 

会話の間、ずっとうつむき加減だった。幹事の女性に対しては慣れているので目を見て話せるのだが、それ以外の相手に対しては目を見て話せなかった。相手の顔を見たときに、そこに真顔があるのが怖いのだ。 

まあ、そこからお互いの職業やら、趣味やらの補足情報的なやり取りが続いたのだが、振り返ってみるに、女性参加者の、少なくとも二人は最初からやる気がなかった。「イケメン希望」とラインで送ってきていたのに、冴えないおっさんが三人(営業マンは別)来たからだろうと思う。その他の女性とはよく話せた。

 

合コンが終了し、帰り際に、女性幹事がグループラインを作ると空虚に宣言した。

それから約四時間が経つ現在、そのグループラインには営業マンを除いた男三人と、女性幹事だけが入っている。

なんていうか、もう恋愛なんて無理という境地にずいぶん前から立ってしまっていて、僕を動かしているのは概ね性欲(と微かな恋愛への期待)だけなのだが、男三人のLINEグループをそっちに移そう、せっかく作ったのだから招待履歴だけが残っているLineグループで話していた方が風情?があると冗談を言ってしまう僕って、自虐が好きなんだろうな。自分を自虐でしか捉えられない? 

疲れたので、明日は男三人で温泉に行ってこようと思います。

システム開発と小説、映画の違い

小説とか映画とかに長年浸っていた僕の思考は、見えないものを見えないまま扱うことに慣れている。確かに作品の中で、もろにそのテーマについて語ったり、出来事として描写することはあるが、基本的には語られなかった「行間」が大事な意味を持ってくる。

しかし、システム開発において、見えないもの、(PC上で)触れないものは無に等しい。ほとんどすべてのものはソース上、もしくは設計書上に書いてある。

もちろん、言語特有の、暗黙の仕様やメモリやCPUの動作順序など、よりコアな部分に行くと、物理的な制約にぶつかるんだろうけど(つまり、ソースや設計書に載っていない情報に左右されるのだろうけど)、それもググれば出てくる、ググるしかないという点で、常にどこかに書いてある。

これは大きな違いだと思う。昔は小説や映画が提供してくれる主題を餌に、誇大妄想なり、思考(と言ってもミミズ並みに短い思考)を展開していたけど、今ではそういう形而上学的な?思考には進まなくなった。とてつもなく、即物的に生きている。

でも、まあ、いま書きながら思ったが、小説や映画も、書かれていたり、見えているもので、「触れない」主題を描いているという点で、プログラムと同じかもしれないのだが、プログラムの場合(※1)、その扱っている主題が「業務」という極めて即物的なものであるという点が異なると思う。何らかの業務に役に立つシステムを作るために、プログラムやデータベースや設計書がある。

 

それから、もう一つ、異なるのは視点の問題だ。プログラミングやシステム開発のだいたいの場面において、視野の範囲は極めて狭い。「僕は脂肪吸引をした」という文があるとしたら、だいたい見ている箇所は「僕」「は」「脂肪吸引(及び、脂肪吸引の引数=脂肪、もしくは引数の型)」「した」くらいまで細分化する。そうしないと、バグが取れない。

脂肪吸引という関数が、僕に対応していないかもしれないし、僕の脂肪が脂肪吸引に対応していないかもしれないし、脂肪吸引した結果が、「した」という行為に対応していないかもしれないからだ(「僕は脂肪吸引を蹴り上げた」だとコンパイルエラーだ)。

もちろん、「僕が脂肪吸引する」という文が、業務システムにおいて必要かどうか、という比較的広い視野も時々持つ(こういう視点は上流、すなわち設計に関わる人が多く持つ。そして業務に必要なければ無慈悲に削除される)。しかしその視点も、先程から書いているように極めて即物的な点では変わらない。そこでは「表現の豊かさ」とか「テーマの発展性」などの視点がない。ひたすら「業務で役に立つかどうか」だけだ。

 

もちろんシステム開発の業務の中で人とコミュニケーションを取ることが少しはあるので、そこで、「表現の豊かさ」を発揮することはある。具体例を挙げる気力がないので、そろそろ寝るが。

 

まあ、しかし即物的な視点だと、自分みたいな素人はプロジェクトでいらない存在だという視点に、頻繁にたどり着いてしまって(いまのひどく寂しい職場環境のせいでもある)、その点が辛い。これほど、つまらない仕事は僕にしか耐えられないと思って日々頑張ってはいるが(※2)。あと、上に書いてあるような、仕様書があって、それに合っていたら正解、間違っていたら不正解とはっきり決まっているのは、まだ救いあると思う。デザインやっているときは、そのへんが不明確でストレス溜まったから。

 

まぁ、なんか以上です。

 

(※1)ここで言う「プログラム」は業務システムの開発における、プログラムのことです。ほかの分野はよく知りません。

(※2)たまに「よく考えてるな」と感心することもあるし、技術ってすごいなと思うことがあるので、全部が全部つまらなくはないです。

 

 

隣の人について

派遣で入っている現場であまりにも放置が続いて、派遣先の社員とのやり取りも質問しに行くだけで嫌な顔をされるので、きっついなあと思いながら日々過ごしていた。まあ、しかし隣にすごい有能な賢い派遣の人がいて、その人に聞けば(現場特有の仕様書の書き方とか、仕様そのもの以外の)技術的なことは大体なんでも教えてくれるので、その点は良かったなと思う。質問して感心するのは、(素人なので素人っぽくて恐縮だが)すごい細かいところまで見ているのだなあというところ。僕みたいに、この部分は大体こういう処理をして、次にこの処理が動いて、という大局的な(?)大まかな視点ではなく、この行のこの部分の扱っている型はこれだから、その型では落ちる、みたいなすごく細かいところまで見ている。休日に勉強して少しでも差を縮めないといけないが、現場での経験の差がものを言っていると思う(ほかにも、エラー箇所を教えてくれない不親切なSQLエディタで、けっこう長いSQLのエラー箇所を三秒くらい見ただけで分かる、というすごい能力を見た)。技術を身につけるのは時間と鍛錬が要るというのはさすがに分かってきた。精進します。

 

「スーパー・サイズ・ミー2」を見た感想

スーパー・サイズ・ミー」で有名なモーガン・スパーロックの「スーパー・サイズ・ミー2」をさっき見た。前作では、当時から健康に悪いと言われていたマクドナルドのハンバーガーを一ヶ月間食べ続けると人体にどんな影響があるかを検証していたが、2では自らがファーストフード店(フレッシュなチキンバーガー店)を経営することで、どんな事実を知れるかというのを検証している。

 

まず、スパーロックは割と広い飼育場を借り、鶏を飼い始める。先に鶏を育て始めるのは、順番として正しいのかよく分からない。だって店舗やメニューや人員確保の準備に一年くらい掛かりそうだから、先に鶏の飼育を始めてしまうと、育ちすぎてしまうからだ。まあ、でも映画が時系列順に進んでいるとは言っていないので、整合性は取れていることにする。

 

鶏の飼育の過程で、スパーロックは養鶏業界の様々な裏の事実を知る。アメリカの鶏の99.7%?が大企業4社に独占されていること。その4社は全国の養鶏家を競わせ、養鶏家をランク付けする、「トーナメント方式」を採用していること。そして、一番低いランクの養鶏家は生活が成り立たないこと。大企業が恣意的に「トーナメント方式」を運用していること、が複数人の養鶏家のインタビューを通じて明かされる。

 

「大企業は独占している鶏を養鶏家に送り、養鶏家はそれを育て、精肉業者に納品する」

というのが映画を見て理解した鶏肉生産の流れなのだが、先述した大企業はトーナメントで優勝した養鶏家に、わざと質の悪い鶏を与えることで、作中では最下位までランクを下げさせている。また、企業はわざと養鶏家に高い機材を買わせることで、借金まみれにさせる。これらはすべて養鶏家を支配するために行っていると、元大企業にいた要人の告発により明かされる。

その他、「放し飼い」の条件がわずか数十センチ、鶏小屋の外に囲いを作っただけで満たされるなど、鶏肉業界の闇を暴いていったあとで、スパーロックは店舗の内装の参考のために、様々なファーストフード店を訪れる。これは確か前作でもあったが、店内の壁や、トレーの上に乗った広告紙や、レジの上のメニュー覧等に踊る、様々な欺瞞の言葉をマーケティングの専門家達と共に紹介していく。普通のスタッフが作っただけなのに「職人」と書いていたり、「厨房で割った、割りたての卵!!」と何でもないことをよく見せたり、挙句の果てには意味すらない、「Quality!!、Service!!」などの言葉の数々(←むしろこっちのほうが潔い気がしてくる)。内壁は自然をイメージさせる植物の絵柄を多用し、包装紙も発泡スチロールからダンボールっぽい色合いの紙に変更し、巧みに「自然」を演出している。客はそのイメージだけで健康に良いものを食べたと錯覚してくれる(?)。

 

スパーロックはメニュー開発にも抜け目がない。メニュー開発の専門家に依頼し、より健康的で、オーガニックなジャンクフードの開発を目指す。 

まず、「放し飼い」で飼育された鶏をどう調理するかを検討する。グリルが一番、油が落ちるからヘルシーで健康的なのだが、街角で沢山の人達にインタビューした結果、グリルは美味しくなく、人気がないため、却下される。やはりフライがみんな好きなのだ。したがって、メニュー開発の専門家は、フライしたチキンに焼き目の着色料をつけ、それをソースと野菜と一緒にバンズで挟んだメニューを提案する。味は好評で、「これは行けるんじゃないか!」と皆で盛り上がる。

「ところで、このメニューはどれくらい健康的なのかな?」と、スパーロックがふとした疑問を口に出す。専門家は答えに窮し、あたりは爆笑に包まれる。

 

オープン当日。スタッフも雇用し、店の前には長蛇の列が並ぶ。スパーロックは客を招き入れ、自慢の「グリルド・スパイシーチキン・サンドイッチ」を提供する。客は美味しいと言ってそれを頬張り、パンフレットや店内の壁に書かれたメッセージを読む。そこには、これまでハンバーガー店を作るまでの過程で出会った、養鶏家の苦悩や食品会社の欺瞞が綴られている。レジの前には「放し飼いスペース」が設けられ、こんな狭い場所で「放し飼い」が行われていたことに客は驚く。そして客の一人がこうつぶやく。「でも、こんな真実を暴いちゃったら誰も外食しなくなるんじゃないの?」

スパーロックはその疑問に困ったような表情を浮かべ、何も返答できず、映画は幕を閉じる(ほんとはその後のクレジットで養鶏家の後日談とかあった)。

 

 

 

最後のお客さんのつぶやきは「お前はファーストフード店を本気でやる気ないよね?」って言っていると思ったのだが、確かに上に書いたような改善点?をすべて全うしようとしたら、ファーストフード店なんてまともに経営できないんだろうと思った。焼き目の着色料も禁止、遺伝子組み換えも鶏の虐待(成長速度が早すぎて、心臓発作や骨が内蔵を突き破って死ぬことがある)だから禁止、放し飼いも、もっと広いスペースで行う(室内用の遺伝子組み換えの鶏は、太陽光を浴びすぎると死ぬ)、これらをまともにやろうとすると、鶏肉の原価が高くなって、ハンバーガーが高くなりすぎて(なおかつグリルで鶏肉がパサパサになって)、誰も食べに来ないよねって話。ファーストフード店自体が、上で書いたような鶏の犠牲の上で成り立っているかもしれない、ということで今日のところは終わりにします。

 

 

 

 

「アイ・アム・マザー」を見た。

昼に起きて、昼ご飯を食べてまどろんだらもう午後二時。
そこから暇つぶしにPS4のゲームのワゴンセールを見て、安いゲームが面白そうかyoutubeなどで検索して、調べる作業で午後四時。結局、「グランドセフトオート5」を二千円で購入した。そのゲームをダウンロードしつつ、ネットフリックスで「フラット・ライナーズ」を見る。エレンペイジが出てる映画は面白いのが多い印象なのでたぶん面白いでしょう。

昨日は、これまたネットフリックスの映画で「アイ・アム・マザー」を見た。育児用ロボットにシェルターの中で愛情豊かに育てられた少女は、外界から助けを求めにやってきたおばさんによって、育児用ロボットの本当の目的を知る。ロボット(マザー)は人類が絶え間ない殺し合いの果てに自らを破滅に追い込むのを見かねて、シェルターの中で人類を再教育することにして、その一環として少女を教育していたのだった。そして少女の前にも何人もの人を教育してきたが、基準に満たないものは焼却処理していた。そのことに反発を覚えた少女はロボットの阻止をかいくぐって、おばさんに導かれるままに外の世界に出る。外の世界は先述通り、ロボットに支配されており、荒廃した世界がどこまでも続いている。(まあ、そこからいろいろあって)少女はシェルターの中に置いてきた弟を取り戻すべく、シェルターに戻ることを決意。マザーに私が弟を育てると宣言する。マザーはその少女が唯一基準を満たした、信頼できる人間であると考えている。最後の決めセリフに「私が必要ないなら殺して」とロボットは言い放ち、少女はロボットに向けたピストルの引き金を引く。

 

親殺しがテーマの映画で、物語の形式上?、最後にロボットを殺さなければならなかったようだけど、あれだけ理解ある賢いロボットなら共存できる可能性も十分にあったんじゃないかと強い疑問を感じた。外の世界でさんざんロボットにひどい目にあわされてきた(殺されかけてきた)おばさんは、ロボットが傷の手当てをしようとしても激しく反発したが、結局ロボットの知識と薬によって見事に治療された。ロボット自体が人類と共存するために、賢い人類を生み出そうとしているのに、それが生み出された後で、「私を殺して」と言うのは理解できなかった。

 

まあ、理性的なロボットが人類を家畜化して、基準に満たないものはロボットの手で殺処分される世界だけど、人類が互いに殺し合って、自滅していった経緯を見ていれば、(間違いなく殺処分される僕のような立場でも)納得しちゃうんじゃないかと、映画を見終わったあとちょっと思った。

自堕落すぎるGWを送っている。なんとかしたい。

 

映画:フラットライナーズ

https://bd-dvd.sonypictures.jp/flatliners/

 

映画:アイ・アム・マザー

https://filmarks.com/movies/84277

 

「浮き草たち」を見た。

「浮き草たち」という映画をさっき見た。

簡単に言うと、アメリカのギャングの手下の仕事を、服役中の兄貴の代わりに請け負った弟が、仕事(荷物の受け渡し)を失敗し、運転手役として来ていた女の子となんとか仕事のケリをつけ、報酬を受け取り、それぞれの生活に戻っていくのだが、女の子の方が悪党とまだ手を切れず、悪党のもとへ返したくない弟が彼女を引き連れて逃亡生活を始める、という内容だった。

はっきり言って、恋愛を見せたいだけの映画だった。荷物の受け渡しに失敗し(別の人の荷物を受け取ってしまい)、実際ならギャングの手下から相当の脅しやら叱責が飛んでくるはずなのに、まったくなしで、取り違えた荷物の中から見つけた薬の処方箋の住所の家で、男は髭を剃り、女は優雅にドレスアップして、出かける始末。完全にデートである。それで別人に渡した荷物を取り返して悪党のもとへ届けるのだが、そのシーンも緊張感まるでなし。悪党は荷物が戻ってきたことに安堵の笑みを浮かべ、本来、渡すべき人だった人のところへ二人を車で送り届ける。それで、荷物を渡して、すんなり報酬を受け取り、女の子は悪党のもとへ帰ろうとするのだが、弟は帰したくないから引き止め、二人で逃亡生活を始めるというところで映画の幕が閉じる。なんというか、決して妬みではない(確かに女の子はめちゃ可愛かった。)と信じたいのだが、こういう映画って悪党がプレッシャーをかけるから成立することない?恋愛に発展する要所要所で、悪党が邪魔をしてきて、それを乗り越えようとするから燃えるんでしょ?ほとんどなんの障害もなく、楽々と恋愛が成就する物語の、どこに共感を寄せればいいのか、皆目見当がつかなかった。

確かに女の子は可愛かった。アホな弟をからかう女の子の嘲りの表情も可愛かったし、時折、冴えたことを言う弟に感心する女の子の表情も可愛かった。というか、すべてが可愛かったのだが、ストーリーとしては共感できるポイントもなかったし、展開も丸見えで、何を意図して作ったのかまるで謎な映画だった。

 

浮き草たち

https://eiga.com/movie/85685/

 

 

※そういえば、三十歳になりました。