月刊ニヒリスト

ニヒリストが日々あったことを綴るブログです。

技術と人間の関係

旅行しながら読んだ、「機械カニバリズムという本が内容豊富で、深かったです。
フーコーの生権力を引用して、人間には頭にあたる(人間固有の)部分と体にあたる(データ化できる代替可能な)部分があって、人間の頭の部分にあった、創造性や性的欲望などが、AIによる創作や、アダルトサイトの、レコメンドシステム(こういう動画が好きな人はこういう動画が好きですという統計処理)によって代替可能になりつつあります。


だから、私を私にさせているもの、すなわち服の趣味やら特殊な性癖やらも、統計情報によって可視化され、管理できるものになるので、ますます私(人間)とは何かが分からなくなります。いや、逆に、後述する将棋の話からも分かるように、人間については理解が深まるかもしれません。フーコーを引用して何を言いたかったのか読んでても分かりませんでした。生権力という言葉は、GOTOキャンペーンですぐに旅行に行った僕や、コスパ厨やインターネットが発達して、人々が自由に意見を交わし、民主化がよりちゃんと進むというインターネット黎明期の理想が大きく外れたのを言い表しているような気がして興味あります。

AIと人間の将棋(電王戦という大会)の話も面白かったです。将棋のAIは膨大にある過去の棋譜のデータをもとに、「こういう状況ではこう打つと、より勝つ確率が高まる」みたいな評価関数をたくさん用意し、要するに人間の将棋を手本に作られています。

しかし、人間にはある、感情(勝利への焦りetc)や美学(不安定な形に不安を感じる)がないため、人間が絶対打たないような手を平気で打つらしいです。人間の目にはすきがありすぎるスカスカな守りの手(「囲い」というらしいです)も、あとの展開を見ると、合理的な手らしくて、人間の棋士がAIから学習することも多々あるそうです。

ずっと優勝している羽生さんの、世代は、それ以前の世代に重視されていた、将棋の「型」を意識的に無視して、できるだけたくさんの可能性を考慮しようという姿勢だったのですが、将棋の美学(直観)は重視していたみたいです。しかしAIによる訓練を積んできた新しい世代は、(いろんな人がいるのでしょうが)そういった美学も捨てて、将棋をするらしいです。

AIと人間の棋士の対決で面白かったエピソードは、人間の棋士が、AIのことをひらすら研究して、AIの統計上のバグにあたる手を執拗に打って、勝ったということです。人間らしくていいなと思いました。

あと、いろんな認知科学系の本で批判されている、ジョン・サールの「中国語の部屋」はこの本でも批判されていて、

個室に穴が開いていて、その穴から辞書を渡されて、そこには「この言葉が来たらこの言葉を返せ」と書かれていて、個室の中の人は辞書のとおりに言葉を返す。辞書には中国語の完璧な使い方が書かれていて(統語論)、個室の中の人は中国語をまったく知らないのだが、個室の外の人からは完璧な中国語を話す人に見える、というのが中国語の部屋です。チューリングマシンを批判するために考案されたたとえ話です。

要するに、言葉をどれだけ巧みに使うAIが登場しても、そのAIは言葉の意味を理解していないじゃないか、ということですが、
・「中国語の部屋」の中の人が中国語を理解していないと、どう証明するか
A.辞書を取り上げて、中国語で話しかけて、その返答を見ればいい。→しかし返答がなかったり、とんちんかんな答えが返ってきても、知らないふりをしているだけかもしれない。あるいはまともな返答が返ってきても、AIかもしれない(もう一冊辞書があるかもしれない。辞書を暗記したかもしれない。AIなら可能)。

おなか空いたので、ご飯食べてきます。本のタイトルのカニバリズムは、どこかのカニバリズムの部族は、捕虜を豪華な食事に呼んで、家族の誰かと結婚させてから殺して食べるそうです。要するに、技術はあくまで道具で、社会のニーズや思考に合わせて、作られるという道具説(社会構成論)や、技術は人間の都合(社会のニーズ)とは関係なく、個別に発展する(自動車がどれだけ人をひき殺そうが、自動車の速度は年々上がる)という自律説(技術決定論は人間と道具を別々に捉えている発想で、この本が主張するのは、いったん作られて普及した技術は人間の体に取り込まれるそうです。正直、この話はちゃんと理解できてなくて、人が技術のあり方に影響を与えるし、技術が人のあり方に影響を与えるという話っぽいです。本の例としては、Lineが生まれたのは東北の地震があったときで、相手が読んだことがわかる既読マークは、返事ができない状況でも、読んだことを相手に伝え、安心させる効果を狙ったものだったそうです。
しかしLineの画面は漫画の吹き出しみたいなデザインで、相手との一体感を演出するものであったため、既読スルーは拒絶の意味になったとのこと。それから、タイプミススマホの普及で、許容されるようになりました。
 
これらは技術が人間のあり方(考え方)を変えた例らしいです。まあ、上の例はたいして人間を変えてる気がしませんが、You Tubeにあるウィンブルドンの過去百年の試合を振り返るという動画で、昔の木製の重いラケットから今の金属製の軽量なラケットで明らかに選手のフォームが違うのを見ると、技術が人間に影響を与えているのは分かる気がします。というか、本では影響を与えるとかではなく、その技術があったときとなかったときで、別の人間になると言ってました。
 
先生も〇〇乗りなら、もしかして分かるのではないでしょうか?(本の言い方では、〇〇+人間という、これまでの人間ではない、別の人間らしいです)。僕は正直、読んでも実感としてよく分からなかったです。文房具が好きなので、よくペンを使ってますが、ペンがなかったときのことを想像できないからかもしれません。
 
それで、僕が考えたのはいつの時代でも新しい技術を拒否する人がいて、この人達はどういうことをやっているのか(社会的に見てどういう行為なのか)、ということです。
本の言い方では、自分の体にその技術を取り込みたくないということなのでしょうが、もちろん自分の体に何を取り込むのかは自由です。僕もちょっとネットは時間の無駄だなと思うことがしばしばあるので、技術との関わり方を考えているところです。
 
そういうわけで、ご飯食べてきます。