月刊ニヒリスト

ニヒリストが日々あったことを綴るブログです。

メタ倫理学

メタ倫理学の本を読んでいる。倫理学は何々をすることは善か、と問うけどもメタ倫理学は善とは何かを問う。善と悪、すなわち道徳を人の心の問題として扱うのが主観主義、人の心とは別個に独立して存在するというのが客観主義だ。そして道徳なんてものはそもそも存在しないという立場が道徳の非実実在論非実在論のうち、人々が道徳だと思っているものは実は道徳ではなくて、何か別のものを道徳だと感じているだけという立場がなんとか錯誤論というらしい。でも、錯誤論も全部が間違っているのならその間違ったものが道徳なんじゃないの?とか、間違えるには正解が必要で、その正解が道徳なんじゃないの?とかいう批判も寄せられている。それと、道徳がただの錯誤で、実害も多いから道徳を全廃しようという立場もあるが、それも結局のところ全廃してより良い「善」を目指しているので実在論だともいえる。非実在論をどうやったら強固に保てるかはよく知らない。

実在論の内訳はさっき書いた主観主義と客観主義で、主観主義は道徳の定義を人々の心に求める立場。何が善かは人が善だと思えば善だ。人によって善悪の定義が変わるということをこの立場はよく説明できる。しかし大きな問題があって、「私は非力な子供を殴るのが善だと思いました」が成立してしまう。あるいは体制にこびて「当時は黒人を奴隷として扱うのが正当だったので私がしたことは悪でない」も。つまり、人は道徳判断を誤るというという可能性をなくしてしまう点が道徳の主観主義の悪いところだ。

その点、客観主義は人の心とは別個に、道徳が存在すると考えるから、誤る可能性は多分にある。「私の心はそうだったので、それが善だと思いました」と言っても、「いやいや、客観的な基準に照らしてそうではありませんよ」と答えることができるからだ。法律などである程度、社会がまとまっていることを考えれば、この立場も説得力がある。ただ、「人の心の外に存在するのならどうやって私たちの心に影響を与えるか」という問題と、「道徳はどんなふうに(人の心から離れて)存在しているか」という問題がある。後者の疑問からいくと、例えば、僕が可愛いチワワに冷水を浴びせて、チワワが寒がっているのを見て楽しんでいたとしよう。そこにあるのは僕が蛇口をひねり、冷水がホースを伝ってチワワのほうへ飛んでいくという物理現象だけだ。そのどこにも「悪」はない。存在の仕方には物理的なものだけじゃなく、法律や国境線や概念などの仕方も多々あるけど、どういう種類の存在かということだ。道徳の実在の仕方に先ほど言った自然主義的な立場とか、なんかいろいろある(この辺までしか読んでない。あと、眠い)。

それから第一の疑問の「心から離れたものがどうやって心に影響を与えるか」問題(「奇妙さからの論証」)だが、これは人の心から離れた単一?もしくは複数の存在物が全人類に何らかの発信装置を使って?影響を与えていると考えるのは奇妙ではないか?という不自然さに訴えた議論らしい。でも「奇妙でもそうなんだ」と強弁を張れるところが弱い。それからヒューム主義というものがあって、人は心の中の欲望とか心の中にあるものでしか動機づけられない。なので心の外にあるもので動機づけられることはないのではないかとも言われるらしい。

 

忘れないうちに読んだ本の内容を書き溜めた。眠いんでねます。