月刊ニヒリスト

ニヒリストが日々あったことを綴るブログです。

「今際の国のアリス」を見た。

※ネタバレあり

ストーリーはバトロワ系で、仲間同士で道路ではしゃいでいたことによって、車の衝突事故が起き、警察に追われ、駅のトイレで隠れている最中に停電が起き、トイレから出てみると、東京の街中から人が消えている。
仲間三人で街中を探したが、人っこ一人いない。渋谷の交差点の真ん中で座りながら、「こうやって誰もいないのも悪くないな。だって働かなくていい」みたいなことを仲間内で話している時に、ビルの側面のディスプレイに「ゲーム会場はこちら→」という文字が映り、矢印の方向を向くと、暗い街中で唯一照らされたビルが見え、そちらに向かうと、人の姿がある。ビルの入り口に、テーブルが置かれ、その上に「一人一台」という紙切れと共に、スマホが並べられていて、それを手に持ち、しばらく待っていると、「ゲームを開始します」という音声がスマホから流れ、スマホの画面でゲームのルールの説明がある。

そんな感じの流れで、ゲームをクリアすると、その人には数日間のビザが与えられて、この国にいることが許される。ビザが切れると、空の上に飛んでいる飛行体からレーザービールを脳天にくらい、死亡する。

死なないためには、ゲームをクリアしていけばいいが、ほとんどの場合、ゲームに負けると死ぬようにゲームが設計されている(途中退場した場合もレーザーを食らう)。ゲーム会場にはトランプがあり、生きてゲームから抜け出せた者はトランプを持ち帰ることができる。生存者全員で、全てのトランプのカードを入手できれば、生存者は元の世界に戻ることができる。

そんな感じの世界観で、バトロワ系のサガとして、なぜこんなゲームをさせられているのかが気になるポイントだが、オチを言ってしまうと(オチと言っても、ほとんど理屈が通っていないからオチの放棄とも言えるが)、主人公たちが車の事故を起こした渋谷の交差点で、隕石の落下が起き、そこにたまたまいた、数百人?の人々が命の危険にさらされていて、病院に運び込まれた、その人たちの集合的無意識がこのゲームを作り出したというもの。そしてゲームに勝ち、生存できた人は現実の世界でも生存し、負けた人は現実の世界でも死亡する(らしい)。

なぜそんなゲーム設計にしたかが気になった。隕石の被害に遭って、おのおの人工呼吸器をつけながら生死の境目を彷徨っているが、お互いに蹴落としあう意味がよく分からなかった。それぞれの生き死にはそれぞれの問題なんだから自己完結でいいし、まあ百歩譲って集合的無意識だとしても、その集合的無意識で他人を蹴落として自分の生存確率が上がるという理屈が分からなかった(※1)。

あと、自分がプレイヤーだったら核シェルターとか探して、そこに食料を持ち込んで、ビザが切れてレーザーが飛んできても生存するのを試みると思う。体内に埋め込まれたGPSに向けてレーザーが飛んでくる設定だからGPSが通じない場所でもいい。ああ、でもそうしてると、これまでのドラマの展開を考えると、そこがゲームの会場になって、せっかくの隠遁生活が壊されるんだろうな。

やっと、規制や規律が厳しいがっちがちの日本から逃れられて、働かなくていいニューワールドに飛ばされたんだから、自由を満喫するよね。なぜ普段からクソゲーに付き合わされているのに、そのさらにクソゲーをやらなきゃいけないんだって思う。ゲームに参加していく主人公たちを見て、気の毒でならなかった。

バトロワ系って「現実は厳しいんだ、厳しい現実では他人を蹴落とさなきゃいけないんだ」っていうメッセージなんだろうけど、もうそんなの常識だからそこから逃れたいっ話だわ。まあ、でもほとんどのバトロワ系は、逃れるには勝つしかないって結論を言ってるんだけど。

※1 最後のシーンでジョーカーが写っていたから単なる嫌がらせの可能性あり。