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「心のありかー心身問題の哲学入門」 前半読んだ感想(というか、要約)

心なんてものは脳の神経細胞の発火に過ぎないという物理主義の冷めた主張に一石を投じるために、いろんな論者の主張をまとめた本。物理主義の考えでは心なんて、脳の状態によってどうにでもなるものなんだから、サプリとか薬とか飲んで脳の状態を変えることが重要だという(割と理にかなった?)ことを言いがちだが、脳とは切り離された心の領域があり、心の移り変わりが物質的な介在なしに行われるのだということを、前書きを読んだ限りでは言いたいんじゃないかって本。まだ前半しか読んでないが、けっこう面白いことを書いていたので紹介してみる。

 

まず心があるのだと言うために、物理主義よりの考えだが、還元(本書の用語では「スーパーヴィーン」)という概念を使う。例えば「腕が痒かったから掻いた」という文があったとして、まず「腕が痒い」という心的出来事には「腕が痒い」という心的側面と、「腕の痒さを実現する脳細胞の発火」という物理的側面の2つがある。そして心的側面には規則がない(例えば、これまで好きだった子が突然嫌いになるかも知れない)。しかし物理的側面は厳密な科学の規則に則っており、ある神経細胞の発火が閾値を超え、ある感情を起こす等、因果関係を説明できる。還元という概念を使って、心があると主張したい人は脳の状態の様々な変遷によって、その都度、心がスーパーヴィーンされていると主張する。

 

しかし心が物理的現象の基盤の上に乗っかったものだという主張では、心は因果関係に対して何の役割も果たしていないという事になる。心Aから心Bに移り変わるのに、脳の状態の変化しか影響しないのであれば、心は単なる、(良い例えが思いつかないが)のり弁の上に乗ったのりでしかない。心の推移に心が影響を与えるような理論を作るために哲学者が努力してきた(みたいだ)。

 

しかしキムさんという哲学者が上の、心が心に影響を及ぼすことは、本を読んだ印象では徹底的に理解不能であるとする論文を出した。そこでも還元という概念(「スーパーヴィーン」)を使う。

「頭痛がするので頭痛薬を飲んだ。そして頭痛が解消した」という文があるとする。この頭痛がするという心的出来事をM、頭痛薬を飲み、頭痛が解消した後の心的出来事をM#とする。そしてM、M#にはそれぞれの心的出来事を実現する脳細胞の働き、P(飲む前)、P#(飲んだ後)がある。

 

MからM#に移行するのには3パターンの経路がある。

①M→M#

②M→P#→M#

③M→P→P#→M#

 

①は、「心には規則性がない」という上の説明によって却下される。

②は、因果的過剰決定という、結果M#に対して、複数の原因があるのは、おかしいという理由で却下されるらしい。因果関係は一対一でないとだめらしい。これは本をさっき読み返したけど、よく分からなかった。

③は、P#→M#の部分が「スーパーヴィーン」のそもそもの原則、心が脳細胞の働きやICチップなどの物理的なものに還元される、かつ不可逆という原則に反しているから却下される。

 

そもそも「スーパーヴィーン」がなぜそれほど「確からしい」概念かと言えば、ある性質は物によってしか実現されないから。例えば、勇敢な人の「勇敢さ」というのは、弱者をいじめる強敵をこらしめたり、洪水の川で溺れている子供を助けたり、行動などの物理的なものでしか示されない。同様に心も...と言おうとしたが、心は言葉にしたり、顔に出したりしないでも「ある」ように思える。まあ、でも「心があるか?」と質問されたら、説明したり、表現しないことにはあると言えないかもしれないけど。このへんは、本を読みながら考える。ほかにも書きながらわからない点もたくさん出てきた。

 

本の要約になってしまったが、昨日の街コンでまた撃沈した心を鎮めるために、喘息の咳を鎮めるために今日は家で療養生活に励みたいと思います。街コンはもう当分行きません。

 ※続きを読んでいたら、心は脳の物理状態を更新するための媒体だという(キムさんの)機能主義という立場があって、それによると、「喉が乾いたから水を飲んだ」のように、物理としての脳や体の状態を更新するために、「喉の乾き」という心を生み出しているらしい。そうすると、上で書いたような「心が心に影響を及ぼす」みたいなことはまったくなくて、あくまで物質としての脳が存在し、脳の状態の遷移を手助けするために心という架空のものが生み出されているに過ぎない、というか、脳の状態の移り変わりが心だという意見らしい。

心を物理的なものに還元しなくちゃいけない理由は確かに不透明なので、そこは本の続きを読みながら考えていく。

  

心のありか―心身問題の哲学入門

心のありか―心身問題の哲学入門